都電荒川線 乗り方 観光

 

「撮り鉄」が最も集まる橋

 

 

 

 

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都電荒川線のインスタグラム紹介

 

インスタグラムを始めようとネタを探しているとき、毎日通勤に使用していた
都電荒川線を撮ってUPしたのが始めたきっかけです。

 

初投稿は2017年4月30日
当初はセピアやモノクロの写真などを載せてました

 

今ではすっかりはまっており、
天気がいいと撮影に行きたくなったりします。

 

最近はただただ一両の電車が横切る動画にはまってます。
右か左か予想してみてください!

 

感想や意見もらえると励みになります。

 

Twitterもよろしくお願いします

 

 

 

 

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市電の誕生

 

電車は入れ代り立ち代り彼の前に留った。

 

乗るものは無理にも窮屈な箱の中に押し込まうとする、降りるものは権柄づくで上から押し懸って来る。

 

敬太郎は何処の何物とも知れない男女が聚まったり散ったりする為に、自分の前で無作法に演じ出す一分時の争を何度となく見た。

 

夏目漱石
『彼岸過迄』 「チンチン電車の名で親しまれてきた都電は都民の重要な足で、最盛期には四十一系統、三五二キロの路線を張りめぐらし、一日六百万人の乗客を運んだ。

 

その後、急増する自動車の洪水と巨額な赤字、地下鉄の普及のためにつぎつぎ廃止され、現在は荒川線だけが奇跡的に生き残り、いまも乗客を運びつづけている。

 

 

わずか一路線ではあるがチンチン電車が走っているという事実はなぜか人々の心を 揺り動かす。

 

懐古趣味だけとはいえない、ある情感がひそんでいるように思える。

 

 

「旧二十七番と旧三十二番を統合した都電荒川線は、早稲田から三ノ輪橋までの 十二・二キロ、新宿、豊島、北、荒川の四区内を走る。

 

停留所の数は、両端の早稲田と三ノ輪橋を含めて二十九。

 

 

乗降客の多い停留所は、王子駅前、大塚駅前、 町屋駅前の順で、それぞれ国電、私鉄、地下鉄と接続する。

 

 

都電の歴史は円太郎馬車にはじまる。

 

浅草から新橋駅、新橋駅から品川へと、 テトー・テト・テトーと喇叭を響かせながら、目抜き通りを走って大評判になっ た。

 

 

このさまを落語家の円太郎が高座でまねして、これまた人気を博したので、「円太郎馬車」とよばれるようになった。

 

明治十年(1877年) ごろのことである。

 

 

この円太郎馬車を一歩すすめたのが馬車鉄道である。五代友厚、種田誠一らが 明治十三年、市街の目抜き通りに、レールを敷いて、そこを馬車が走る軌道馬車 を計画、英国より馬車を輸入した。

 

明治十五年、認可がおり、新橋―日本橋間を走った。

 

その後、新橋―本石町|浅草橋―浅草|上野|須田町|本石町―新橋と路線を拡張し、やがて品川―新橋間にも馬車鉄道が走った。

 

こうして馬車鉄道は 市街電車の出現まで、
東京の大通りを走りつづけたのである。

 

市街電車(市内電車)は、明治三十二年(1899年)、私経営で出願許可されて、三十六年九月には数寄屋橋―神田橋間に東京市街鉄道、新橋―上野―浅草間に東京電 車鉄道(馬車鉄道の後身)、翌三十七年には土橋―お茶の水間に東京電気鉄道外濠線 が開通した。

 

しかし、三社は競合して経営がうまくゆかず、明治四十四年に東京市が買収して、市電として再出発した。

 

 

 

 

市電から都電へ

 

玉の宮居は丸の内近き日比谷に集まれる電車の道は十文字まず上野へと遊ばんか――電車唱歌

 

これは三電競合時代の『東京地理教育電車唱歌』の冒頭の一節である。

 

五十二番 の靖国神社まで、東京市内の町名、沿線の名所などが読みこまれていてつかしい。

 

三電が市電になってからも愛唱されたという。

 

 

さて、東京市は電気局を設けて、市電を経営管理し、運行させた。明治四十四年八月一日のことであった。

 

発足にあたって、尾崎東京市長はつぎのように訓示した。

 

「その運転区域は全市に互り、基の関係恰も神経四脈の人体に於ける が如きものあり。

 

従って之が経営の良否は直接に市民の生活上に至大の影響を及ぼすのみならず、市の盛衰も亦是に固りて之を下することを得べし」

 

 

その心意気のほどがうかがえる。

 

東京市電の軌道全長は約一九○キロ、一日あたりの乗客は約五十万人、車両台数は一〇五四両 (単車九二三両、ボギー車一三一両) であった。

 

その後、度重なる「市電スト」などがあったが、まずは順調に隆盛の一途をたどった。

 

大正八年(1919年)には車両台数は一五○○両と増加し、乗客も一日あたり約百万人と倍増している。

 

運賃値上げなどもあり、経営は黒字になったが、 必ずしも良好とはいえなかったようである。

 

 

「東京の名物ボロ電車 何時まで待っても満員でたまに空いたのが来たと思や駄目駄目と手を振ってそのまま停 めずに行きやがる何だこの糞ボロ電車奴」と「パイノパイ節」にからかわれたりはしているが、それだけ人気があったとはいえる。

 

大正十年の市電は年間四億五千万人の乗客を輸送している。

 

 

さしも全盛をほこった市電も大正十二年の関東大震災、今次大戦の戦災で決定的な大打撃をうけた。

 

その都度、復旧はしたが、各種の交通機関 (地下鉄、乗合自 動車|都バス・私営バス、私鉄、省線―国鉄、円タクータクシー)の競合で下降をたどった (この間、東京市が東京都となったので、市電から都電になっている)。

 

加えて都市構造の変 化にともない、市街電車のありかたもまた変化し、次第に姿を消さざるを得なかったのである。

 

 

昭和四十二年(一六七)十二月、都電全廃の手はじめとして、銀座線など九系統八路線が廃止された。

 

 

「時計の針は夜の十一時を回っていた。

 

銀座線最後の都電に別 れを惜しむ四千人の群衆の間から、期せずして「蛍の光』の大合唱がわき起こった」 (『朝日新聞』)。

 

そして昭和四十七年十一月には、錦糸町駅前―日本橋間など五系統が廃され、荒川線を残すのみとなった。

 

 

 

 

荒川線の特殊性

 

都電荒川線の前身は王子電気軌道株式会社の郊外電車である。

 

「王電」の名で親しまれた。

 

明治四十三年 (1910年) 四月の創立で、翌年八月、飛鳥山―大塚間が開業 した。

 

資本金は百万円であった。

 

都市構造の変化、つまり東京の人口が郊外に向 かって膨張するという現象によって生まれた
交通機関のひとつである。

 

明治後期 から大正初年にかけて創立された軌道会社はつぎのとおりである。

 

 

京浜急行鉄道(明治三十一年三月創立、三十四年二月開業)

 

京成電気鉄道(明治四十二年七月創立、大正元年十一月開業)

 

城東電気軌道(大正二年八月創立、大正六年十二月開業)

 

玉川電気鉄道(明治三十六年十月創立、四十年八月開業)

 

京王電気軌道(明治四十三年九月創立、大正二年九月開業)

 

 

これら私鉄が全線開通し、営業を拡大するのは大正大震災前後である。

 

さて「王電」。

 

昭和十七年(一四三)に東京市電気局がそっくり買収して市電となり、のち都電となった。

 

荒川線がほかの路線とくらべて専用軌道が多いのはこのせいである。
この専用軌道の多さがいまの荒川線を生き残らせたといえる。

 

なにしろ、荒川線の軌道は十二・二キロのうち90%がもとからの専用軌道であり、都電、 いわゆる路面電車となって、自動車やオートバイと共用で走る区間は10%たらずという比率である。

 

路面電車としてはきわめて特殊な例である。

 

 

モータリゼーションの波で、ほかの都電路線が廃止に追い込まれたとき、この荒川線だけがそれをまぬがれたのは、

 

90%が専用軌道という特殊な点にあるよ うである。

 

いいかえれば荒川線はモータリゼーションにほとんど影響されなかったということができそうである。

 

こうした特殊性に加えて、沿線住民の生活の足を奪わないでほしい、という声も廃止をとどまらせた要因といえる。

 

 

一方、東京 都にも廃止したあとの代替交通についての決定打がなく、廃止に踏み切れないでいた。

 

ほかの路線の場合は、代替交通として、バスや地下鉄などなんらかの交通機関があった。

 

しかし、この荒川線にはそういったものがなく、新たにバスを走 らせるには、専用軌道を道路にするよりほかはない。

 

しかし、いったん道路にし てしまえば、バス専用というわけにはゆかず、道路渋滞は目に見えている。

 

さらに沿線の住環境が悪化する。

 

それやこれやを考慮すると、いまのままで十分ということになる。

 

結局、荒川線の存続が決定し、今日も山の手から下町へ下町から山の手へと、人情を伝えるかのように、走りつづけている。

 

といって巨額な赤字 は増えるばかりで、解消の見込みは立たないらしい

 

                       (『都電六十年の生涯』より)。

 

 

 

 

 

黎明期

 

都電の元祖は明治15年(1882年)新橋〜日本橋間に開通した鉄道馬車に遡ります。
その頃の鉄道馬車とは、まだ鉄路に馬車を走らせている段階なので、厳密に言えば電車ではありませんが、鉄路を使っているところが共通だと言うことで、ここに記載させていただきます。
路面電車と言うのは明治28年(1895年)に京都に市電が開通したのが始まりで、東京は遅れて明治36年(1903年)新橋〜八つ山(品川)間に開通したのが最初でした。当初は東京電車鉄道会社が運営し、民営と言う形から始まりましたが、その後東京市街鉄道会社が運営する数寄屋橋〜神田間が2番目、続いて明治37年(1904年)に、東京電気鉄道会社が運営する外濠線が開通して三社がそれぞれ別の路線を運営する形から始まったのです。
その後路線は増えて行き、明治38年(1905年)には総延長63kmに達しました。

 

しかし、3社の時代は長くは続かず、翌年の明治39年(1906年)には3社が合併して東京鉄道株式会社が誕生するのです。
その後、明治44年(1911年)に東京鉄道株式会社を当時の東京市が買収し、東京市電気局が発足、それまでの路面電車を「東京市電」と呼び、現在の都電の元が出来たのです。

 

その後も路線は増加して行き大正8年(1919年)には総延長138kmにまで膨らみ、一日の乗客数は108万人に成長しました。

 

 

 

 

災害と復興

 

大正12年(1923年)に関東大震災が発生し、市電も甚大な被害を受けました。

 

有楽町の本局庁舎が全焼し、車庫5箇所焼失、車両777両消失、軌道、橋、架線も断線あるいは、倒壊し膨大な損害を受けますが、約9ヵ月半でほぼ復旧し、当時の技術力の高さを証明することとなりました。

 

 

 

昭和前期の市電時代

昭和に入ってさらに路線が拡大した為に、各営業所の路線ごとに系統分けされ、それが路線番号で呼ばれるようになりました。
系統は35系統、一日の乗客数139万人、総延長178kmとまさに東京市の大動脈となったのです。

 

 

 

 

都電荒川線のはじまり

 

その始まりは明治44年(1911年)に大塚〜飛鳥山間を開業した当時の王子電気軌道株式会社です。王子電気軌道はその後路線を増やし、昭和5年(1930年)に現在の三ノ輪〜早稲田間が開通しました。そして、昭和17年(1943年)に東京市電局に併合され、東京市電の仲間入りを果たしました。
そして市電は昭和18年(1943年)都制が施行されると同時に都電と呼ばれるようになりました。

 

 

 

 

戦争による壊滅的な損害からの復興と最盛期

 

昭和20年(1945年)の第2次世界大戦による東京大空襲によって東京都電は壊滅的な損害を受け、18営業所中12営業所が焼失、602両の車両が焼失しました。
その後戦後の復興とともに、都電も復興を果たし、昭和30年(1955年)には一日の利用者が174万人を数えるまでに規模を拡大しました。
その後、昭和37年(1962年)に最盛期を迎え、系統数40、総延長213km、一日の乗客数150万人を数えるまでに成長、ピーク時は、41系統、総延長213Km、1日の乗客数は193万人となり、都民の足として欠かせないものでありました。

 

 

 

 

 

交通事情の変化による廃止の動き

 

しかし、時代は流れ、都内の交通量の増加に伴い、次第に都電の定時運行が困難になってゆき、更に新しい交通手段(地下鉄など)の台頭もあり、昭和38年(1963年)営団地下鉄(現在の東京メトロ)丸の内線の開通に伴い都電杉並線が廃止されたのを皮切りに、昭和41年(1966年)都営地下鉄三田線の開通により41系統(新宿〜荻窪間)が廃止された後に昭和42年(1967年)から昭和47年(1972年)にかけて、順次廃止されてゆき、その距離は181Kmと、その殆どが廃止され、代わりに路線バスが担うことになり、その後順次地下鉄の新規開通に伴バス路線と共生するといった都内の交通事情に変化してゆきます。

 

 

 

 

都電荒川線の誕生

 

ただし、例外として路線の大半が専用軌道で、バスの代替運行が難しかったことと、沿線住民や、都民からの存続の強い要望があったことなどから、昭和49年(1974年)にかつて王子電気軌道株式会社だった路線を統合して、三ノ輪〜早稲田間を「都電荒川線」と称して運行が始まりました。

 

 

 

 

荒川線の変遷

 

都電荒川線として再スタートした直後は一日平均約9万3千人の利用客があったのですが、都内の交通機関の整備に伴い、特に地下鉄はここ30数年の間に爆発的に路線が増えて、特に荒川線の走る東京都北部は、東京メトロ千代田線、有楽町線、日比谷線、南北線、副都心線、都営三田線、日暮里・舎人ライナーなどが次々に整備されて、荒川線の乗客は徐々に減少し、2008年から2018年までの10年間は4万5千人から5万2千人の間を推移するにとどまっていました。

 

東京都は荒川線の人気を取り戻そうと、数々の新型車両を投入して行き、現在はかなりモダンなデザインの車両となっております。
さらに、現在は路面電車が見直され、人気が再燃しかけており、東京都が観光客を呼び込もうと、2017年に「東京さくらトラム」と愛称をつくり、、現在に至ります。

 

 

 

 

都電荒川線の現在

 

1974年に大幅に縮小整理されて発足した都電荒川線ですが、都内で唯一残った路面電車と言う位置づけは今も変わらず、地下鉄や日暮里・舎人ライナーの順次開業により客足は徐々に減り、1975年には約9万人だった一日あたりの乗降客も2010年代には5万人前後と減ってはいるものの、JR線との連絡駅である、王子駅や大塚駅に繋がる停留所では、大勢の乗降客で賑わっています。

 

車両も運転形式も時代に合わせて変化してゆき、ワンマン運転、エアコン装備、パスモ(ICカード)対応などが追加されています。
さらに、車両自体のデザインも変化していて、荒川線の最初は6000系と言われる丸型の車両だったものが、7000系、7500系と進化してゆき、現在は7700系(7000系の改造車)、8500系、9000系、8800系、8900系などが混在して運行されていますが、他の市電の一部に使用されているような、2両連結された車両は現在も存在しません。

 

 

 

前述のように、他の交通手段に乗客を奪われた形となって以前よりも乗降客は減っていますが、現在は様々なサービスで、需要の喚起を行っているのが現状です。

 

その一つが2017年に一般公募で選ばれた「さくらトラム」という新名称です。

 

 

 

路面電車の意味である「トラム」を名乗ることで、国際的にアピールして海外からの観光客を呼び込もうと言う作戦です。
また、都電を含む都営交通全般の事ですが、ネットを活用して、PCやスマートフォンに情報を提供していて、季節に応じて沿線のイベント情報や、ッイッターを駆使した運行情報など、利用者に対するサービスも充実してきております。

 

さらには、回数券、一日乗車券、他の都営交通との共通乗車券、JR,東京メトロを含めて乗り放題の東京フリーきっぷなども発売されています。

 

また、車両の貸切も出来るので、現在様々なイベントにも利用されており、中には結婚披露宴やコンサートの例もあります。

 

車両だけでなく、営業所にも手が加えられています。2007年に荒川営業所に設置された、「都電おもいで広場」がその例です。昭和中期の車両である5500系と7500系一両ずつを展示して、毎週末に公開しております。三ノ輪橋停留場や、庚申塚停留場は1955年ごろをイメージした案内サインや、時計塔,公衆トイレや地域情報発信コーナーなどが設けられました。
2018年には荒川線を含む都営交通の乗車券、グッズ販売や沿線案内の拠点として三ノ輪橋停留所近くに「三ノ輪橋おもいで館」が開設されました。

 

 

 

 

都電荒川線は、東京23区で唯一現存する都電(東京都電車)の路面電車です。東京23区で運行されている軌道線は、都電荒川線と東急世田谷線のみとなっています。都電荒川線は1911年(明治44年)に開業し、現在の営業区間は三ノ輪橋から早稲田の区間、営業距離は12.2km、停留場は30か所で、平成29年度の1日あたりの乗車人数は47,774人です。
長年に渡り、地域に住む人々の足として親しまれており、沿線には昔ながらの商店街や、桜やバラの名所や名所旧跡が多数あり、地域の住民以外に観光客からも人気があります。2017年(平成29年)には、事業主体である東京都交通局が公募によって「東京さくらトラム」という愛称を決定し、より身近な存在として愛されるようその魅力を国内外にアピールしています。
一般的には、都電荒川線の沿線は「三ノ輪橋駅」「早稲田駅」などと呼ばれたりしますが、「駅」ではなく「停留場」が正しいです。

 

 

唯一残った都電路線

都電は最盛期だった1955年ごろには40もの運転系統があり、営業キロ約213km、1日の利用者数が約175万人もいましたが、自動車の普及や地下鉄の開業などにより利用者が減り、順次路線が廃止され、現在は都電荒川線を残すのみとなっています。
都電荒川線が廃止されなかったのは、線路は専用軌道がほとんどで自動車の通行への妨げになりにくかったことと、都電荒川線と並行している明治通りの渋滞が恒常化しており、都電荒川線を廃止し都バスに替えたとしても定時運行が難しいと判断されたためです。また、沿線住民からの継続要望が大きかったことも理由として挙げられます。

 

 

 

 

特徴的な時刻表

都電荒川線は他の電車と同じく平日の朝夕の本数が多くなっており、午前7時から9時頃、午後16時から18時頃は概ね5分ほどの間隔で走っています。特徴的なのは昼間の時刻表で、平日の10時から15時は「6〜7分間隔」、土曜・休日の10時から15時は「6分間隔」という表記になっています。

 

 

 

 

運行形態

都電荒川線は1両編成で、車掌がおらず運転士のみの「ワンマン運転」を行っています。運転士は運転以外にも運賃の受け取りや車内放送の操作などを行っています。乗客は前乗り・後降りで、降車ボタンを押し次の停留場で降りることを知らせます。停留場に駅員が配置されていないことがほとんどで、路線バスに近い運行形態を取っています。

 

 

 

 

運賃

運賃は全区間一律になっており、大人は現金で170円、ICカードで165円、小児は現金で90円、ICカードで82円です。観光に便利な一日乗車券が売っています。こちらは大人400円、小児200円です。一日乗車券を提示することで様々な特典が受けられる「ちかとく」というサービスもあります。特典ガイドである「ちかとく」は都営地下鉄の各駅などで配布されているほか、「Let’s Enjoy TOKYO」などのお出かけサイトでも受けられるサービスの内容を見ることが出来ます。

 

 

 

 

発車時の鐘

「チンチン電車」の愛称の由来となった発車時の伝鐘は、元は車掌が鳴らしていましたが、現在は乗車用と降車用の扉が閉まる際に自動で二度鳴る「2連打ベル制御器」に形を変え、継承されています。

 

 

 

 

貸切りが可能

都電荒川線は、1両を貸し切ることが出来ます。グループ旅行や遠足の移動のほか、映画やドラマなどの撮影に使われたり、中で音楽会や演劇を行ったりという使われ方もしています。オンシーズンや巣鴨のとげぬき地蔵の縁日である毎月4の付く日は貸し切り出来ませんが、平日の午前10時から午後12時30分までの時間帯で(土日は要問合せ)、希望の車両を指定して借りることが出来ます。
運賃は一般で13,820円、中学校・高校・大学などは12,290円、小学校・幼稚園・保育園は7,680円となっています。三ノ輪橋から早稲田間の好きな区間を貸し切ることができ、どこからどこまで貸し切っても一律料金です。以前に結婚披露宴を行った人もいるそうです。

 

 

 

 

季節の限定電車

都電荒川線はその季節によってさくら号、バラ号、ハロウィン号、クリスマス号などの限定列車が走ることがあります。例えば2019年の「都電さくら号」は、沿線4区と連携して車内を桜の造花やステッカーで装飾し、映像ディスプレイや広告もお花見イベントやお花見スポットなどについて掲示しており、乗るだけでお花見気分が味わえる電車になっています。運行時期は毎年都電のホームページなどで発表があります。また、車両の運行状況はインターネットで調べることが出来ます。興味がある方はぜひ調べてみてください。

 

 

 

 

都電おもいで広場

荒川区西尾久にある、都電の旧型車両を2両展示している広場で、昔懐かしい停留場をイメージしたスペースになっています。入場は無料で、土日祝日の午前10時から午後4時まで開場しています。展示されているのは、昭和29年製造の5500形(5501号車)と、昭和37年に製造された旧7500形(7504号車)です。展示車両の中には、都電に関する様々なものを展示した「おもいでグラフィティーボックス」と昭和30年代の世界をテーマにした「おもいでジオラマ」が設置されています。

 

地下鉄が密に整備されている現在、沿線住民以外は交通手段として都電荒川線を使うことはあまりないのではないでしょうか。ですが、都電荒川線には他の電車や地下鉄にはない魅力や特徴がたくさんあります。ぜひ一度、都電荒川線に乗りにお出かけしてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

都電荒川線の未来

 

車両の更新とLRT化

 

LRTとはLight Rail Transitの略称で、ヨーロッパなどで普及している交通システムで、よく見かけるのが、2両編成で、超低床の車両です。
日本でも一般の路面電車の軌道にLRTを走らせている例があります。これらは従来の路面電車と混走しているので、まだ本格的とは言えませんが、日本の各自治体が新しい都市の交通システムを模索していると言う証拠でしょう。

 

国内で唯一成功しているLRTが2006年に開通した富山ライトレール富山空港線です。
東京でもLRT構想があり、それは池袋駅〜サンシャイン60間だといいます。

 

荒川線はどうでしょうか、発足以来順次車両を更新してゆき、インバータ制御の車両を投入し、ホームを近代的に改良し、省エネと利便性を上げてきました。
しかしながら、その改良はホームをかさ上げしたりというもので、LRTのような超低床車両が走るようには出来ていないのが現状です。

 

したがって、現状では荒川線がLRT化される確立はきわめて低いと言わざるを得ません。では、現在どのような改良が行われているかというと、例えばこんなことが。

 

 

 

 

 

軌道敷の緑化

 

都電の軌道敷に植物を植えると言う実証実験が2016年から始まりました。現在は町屋駅前、荒川車庫前、大塚駅前の軌道が緑化されています。これだけでも景色が大きく変わることでしょう。

 

 

 

 

 

都市計画に沿っての大工事

 

荒川線の荒川1丁目から北区堀船3丁目の4.3kmを通称都電通りといいますが、その都市計画道路補助90号の町屋2丁目と小台(西尾久3丁目)を無電柱化する工事が始まっています。これに則って工事が進むと、軌道やホームを移設するなどの大工事もはじまります。
さらに、町屋1丁目と荒川1丁目の区間1200Mは「木密地域不燃化10年プロジェクト」の特定整備路線のひとつに指定されていて、木造家屋の密集を改善し、不燃化するといった、事業が始まっています。

 

今のところ、軌道の一部を立体化、地下化するといった計画は実現しない模様です。
懸念されているのが、明治通りを通る飛鳥山付近の急坂で事故が多いということでしょうか、雨で軌道が濡れると車がとてもスリップしやすくなるので、横転事故が多発しているのです。ここは後の改善事項として残ると思います。

 

いかがでしたか、とにもかくにも都内で最後の路面電車ですから、また乗ってみてもとても味があって風情も漂う都会のオアシスのような路線ですから、これからも大切に残していってほしいものですね。