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三ノ輪橋

浄閑寺新吉原総霊塔

 

浄閑寺は浄土宗で、山号は栄法山。
遊女寺とか投げ込み寺とよばれた。

 

開創は明暦元年(1655年)という。

 

土手八丁といわれた日本堤の北端に位置しているのでかつては吉原花街の絃歌のさざめき が風に乗ってきこえたという。

 

「日本堤聖天 町より箕輪に至るその間凡そ拾三町程の長堤 なり。

 

俗に八丁縄手と いう」(『江戸名所図会』)。さて、遊女たちの多くは、その薄倖な末路 をこの浄閑寺に埋めた。

 

 

十数冊の過去帳では、法名を知るだけで、 素性はもちろん正確な数もわからない。

 

「新吉原総霊塔」はこうした遊女たちの慰霊供養のため、寛政五年(1793年)に立てられた。

 

この前には荷風の詩碑と筆塚がある。

 

 

 

小塚原

 

三ノ輪橋は箕輪橋と書いた。石神井川の末流の千束堀に架かっていた橋である。現在の南千住一丁目十四番付近にあった。

 

都電荒川線はこの三ノ輪橋を起点、あるいは終点として運行する。

 

石神井用水はこの三ノ輪橋をくぐり、浄閑寺に沿って流れ、山谷堀を経て隅田川にそそぐ。

 

旧三ノ輪村には、遠山左衛門尉の抱屋敷があった。

 

さて、小塚原。間口六十間余、奥行三十間余の刑場は、寛文七年(1667年) 本所回向院 の持地となり、寛保元年(1741年) 刑死者を弔うために高さ四mの地蔵が立てられた。

 

現在、首切地蔵といわれているのが、これである。

 

こつ通りに面した回向院は、寛文七年(1667年) 本所回向院の別院として造立され、刑死者や行路死者の遺体が埋葬された。

 

歴史的な人体腑分けは、『解体新書』翻訳のきっかけとなった。

 

それを記念するのが 「観臓記念碑」である。アダムとイブを配したレリーフは、近代医学の夜明けを表徴しているようである。