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西ヶ原四丁目

西ヶ原一里塚」 一里塚は街道の両側に一里(約四キロ) ごとに設けられた塚である。

 

天正十年 (1582年)に織田信長が一里を三十六町と し、一里ごとに松や榎を植えたのがは じまり。

 

慶長九年 (1604年) に江戸幕府が、 日本橋を起点にして
五街道の一里ごと に一里塚をつくらせた。

 

『江戸砂子』に、 「追分より一里、日本橋より二里也。

 

日光御成道也」とあるように、この西ヶ原 の一里塚は日光御成街道のものである。

 

現在、都内に残る一里塚はここと中山道の志村一里塚だけである。

 

大正五年 (1916年)、市電が敷かれるとき、渋沢栄一らが保存に尽力し、市電を一里塚の両脇に迂回させた。

 

江戸幕府は東照宮礼 拝の道としていくつかの道を開いた。
御成街道、日光道中、例幣使街道、壬 生街道、会津西街道などがそれである。

 

御成街道は将軍社参のための道で、 日本橋より川口、岩槻を経由して幸手 で日光道中につながった。

 

ところで一里塚には榎が多かった。

 

この樹木は植えやすく、手がかからなかったからであろう。

 

俗説では、将軍が余の木を植えよといったのを、土井大炊頭が榎と聞きちがえて榎の木を植えるようになったという。

 

しかし、慶長九年は家康が征夷大将軍になったばかりで、家光が将軍になったのは二十年ほどのちの元和九年 (1623年)
である。

 

しかし、話としてはおもしろい。

 

 

東京外国語大学・無量寺

 

西ヶ原は、平塚明神 (神社) のある上中里や中里に対する西の原の意という。

 

江戸時 代は将軍狩猟の林地と殿舎があり、御殿山とよばれた。

 

いまの東京外国語大学のところには御薬園があった。

 

明治になると御薬園の跡地に 海軍火薬庫が置かれた。
戦後、その跡地に外語大が移ったのである。

 

旧古河庭園の近くにある無量寺 は護国寺 の隠居寺で、江戸六阿弥陀の三番として知られる。

 

また、このあたり一帯は貝塚があったところで、昌林寺には西ヶ原貝塚(都 旧跡)がある。

 

なお、一里塚の東から西へ入る旧鎌倉道に立っていた「板橋・王子道」の道標は、飛鳥中学校の校庭に移されている。